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『あのころはフリードリヒがいた』を読むと、私は喉元に鋭い刃をつきつけられたような気持ちになります。「もしも、お前だったらフリードリヒを助けられたのか?」と問われているような気がするのです。
1925年、不況下のドイツで一週間違いで生まれた「ぼく」とフリードリヒは、家族ぐるみでつきあうようになります。やがて、ヒトラーが首相となりユダヤ人への迫害が始まります。失業していた「ぼく」の父親は職を得るために労働党の党員となり、フリードリヒの父親はユダヤ人だからという理由で職を無くします。そしてドイツ人の暴徒によるユダヤ人襲撃はフリードリヒ一家をも襲い、それがもとでフリードリヒの母は亡くなります。父親が収容所に入れられ、ただ一人フリードリヒは逃亡生活を続けます。ある夜、空襲が始まり「ぼく」と家族が隠れる防空壕にフリードリヒがやって来て、入れてくれるように懇願します。しかし、ずっとフリードリヒとその家族を迫害してきた家主の防空委員によって、フリードリヒは防空壕から追い出されます。「ぼく」とその家族は、それを止めることができませんでした。そして空襲が終わり外に出ると、そこには眠るように死んでいるフリードリヒの姿がありました。
私たちの中には、正義を守り正しい行いをしたい自分と、それができない弱い自分が同居しています。誰もが情けない自分自身に対峙しながら、より強く正しい自分を目指しているのです。けれども恐ろしいことに、「戦争」という大きな過ちの中では、人は簡単に弱く愚かな自分をさらけ出してしまいます。煽動されてユダヤ人の寄宿舎を襲った「ぼく」や防空委員に告発するぞと脅されてフリードリヒを外に出した、防空壕の人々のように。
私自身、「お前だったらフリードリヒを助けられたのか?」というこの本からの問いかけに、「できる」と即答することができません。『あのころはフリードリヒがいた』を読むと、私も「ぼく」と同じごく普通の弱く愚かな人間であるという事実に、否応無く向き合わされます。でも、だからこそ私たちは互いに助け合いながら、社会の進もうとする方向を皆で考え、過ちを繰り返さないようにしなければ、と心の底から思えるのです。
作者のハンス・ペーター・リヒターは、この主人公の「ぼく」と同じ年に生まれました。10代で軍隊に入り左腕を失っています。戦後、社会心理学者として活動するかたわら子ども向けの作品を書き始めます。最初は幼年向けの物語や聖者伝説を書いていた作者が、なぜこのような戦争文学を書くことになったのか、詳しく知ることができませんでしたが、主人公を自分と同じ年にしたことなどから考えて、おそらくこの作品で自分の体験を語り見つめなおすつもりだったのでしょう。そして、冷厳な目で自分のすべてを見つめ語ることによって、リヒターは世界中の人々に、人はどう生きるべきかを問いつづけているのです。
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